外国人の目から見た競輪の世界:競輪学校の内部とは、公共ギャンブルというイメージの裏に隠された真のスポーツマン育成、侍道を感じるストイックさと日本人ならではの感性と美徳
日本で競輪といえばどうしても多くの人が公共ギャンブルのイメージをすぐにしてしまうだろう。しかし世界共通語となっているKeirin、海外ではそれは純粋なトラック競技のイメージなのだ。戦後の経済政策の一端として始まった。「自転車産業の復興とサイクルスポーツの振興」を大義名分に競馬を模した競技としてスタートしたのだ。スポーツ振興くじのTOTOの原型とも言えるものであり、戦後復興の柱として設立されたのだ。
そんな競輪学校の内部を外国人記者が取材、そして彼女がそこで見たのは、肉体のみならず、精神の鍛錬と自制心を鍛えあげるストイックな世界だった。
『奥深き競輪学校の世界、選手になるための学び (C)J.Garnet』「厳しい入学試験をクリアしても、一年間の競輪学校での訓練をしなければ、選手への門戸は開かれない。そしてそこから這い上がっていきようやく日の目を見るのだ。競輪学校では天候にかかわらず一日10時間のトレーニング、それを週6日続ける。また彼らは競技力をつけるだけではなく、自らの自転車の整備調整も覚えるのだ。選手としての力量は何も力だけではなく、自分自身でいかに自分のマシンをきっちりとベストにするかということが問われるのだ。己とバイクは一心同体、肉体とバイクの両方をベストに合わせることこそが、一流選手なのだ。まさに現代の”侍道”、戦うものが己の武器を常に手入れし、ベストな状態でいつでも戦場に出られるようにしているのだ。ピュアにスポーツマンシップとはなんたるかを叩きこまれている様に感じられた。
『純粋に強くなりたいという思い (C)J.Garnet』しかしプロになっても、必要最低限以外部外者との接触を避けるなどを聞くと、このスポーツが純粋にスポーツだという側面以外の要素、つまりはギャンブルなのだと思い知らされる。ギャンブルである以上、そこには常に八百長やイカサマという言葉がつきまとってしまう。そんな不必要な言葉を遠ざけるためにも、彼らは自分のプライバシーを犠牲にすることを厭わないのだ。その全ては競輪学校時代から徹底された教育の賜物とも言えるだろう。ストイック、その一言で片付けるにはあまりにも忍びない。そこには精神性など、様々な日本人ならではの感性と美徳が存在している。
競輪とは”戦う(競い合う)車輪”という意味、相撲がそうであるように、そこに精進し続ける競輪も一つのライフスタイルなのだ。」
『学生は様々な思いで競輪選手を目指す (C)J.Garnet』
『実戦への前段階、何度となく走り勝負勘を鍛えあげる (C)J.Garnet』日本ではなかなか知ることがない競輪学校の内側、そこをあえて海外の記者が見て、感じたことというのはとても印象深い。日本の自転車ロードレースの多くは競輪からの助成金で成り立っており、競輪界無くしては成立しないのも事実、競輪選手達の頑張りはあくまでも個人の地位と名誉と、競輪を盛り上げるためと思っているかもしれないが、結果的には自転車界全体へと大きな影響を与えるものだ。公共ギャンブルという側面から見るのではなく、純粋にトラック競技としての競技者、そして自転車の伝道師ともなっていることにも、もっと注目していきたいと思う。
Text by J.Garnet & H.Moulinette
Translation by H.Moulinette