新規登録する

Welcome To Wherever You Are ! ID Pass ID・Passを記憶 (忘れた)

CYCLINGTIME.com

2012/2/8 12:00

伝説のサイクリスト グレッグ・レモン


Check このエントリーをはてなブックマークに追加
「いつも結果を出すために苦しんできた。サイクリングが僕に教えてくれたこと、それは何かを苦労も無く成し遂げたにしても、それは満足感には繋がらないと言うことだ。」〜グレッグ・レモン
グレッグ・レモン

グレッグ・レモンは1986年にヨーロッパ圏外選手初のツール・ド・フランス覇者となった。そして生死を左右するほど事故から不死鳥のごとくよみがえり1989,1990年と二年連続でツールを制覇してみせた。これでわずか過去9人しか成し得ていないツール制覇3度と言う偉業を成し遂げたのである。

しかし事はそれ以上に複雑だった。フランス人にとって、忌み嫌うアメリカ人に勝利をさらわれたのだ、しかも1度ならず3度までも。レモンの名前は厳密に言えば発音ではフランスの大衆紙「ルモンド(フランス語で世界の意)」と同じである。しかし彼と接したことのある人間は彼を「普通」の人とは決して思う事は無かった。

「レモンはフランスでは奇人変人と呼ばれている。彼は天性の選手で、ごろ寝から起き上がってレースに出て勝ててしまうんだよ。」

著書”A Dog In A Hat”の中でジョー・パーキンはそう書き記している。

もともとスキー選手として活躍していた彼は、夏場のトレーニングの一環として自転車に乗っていたが、そこでめきめきと頭角を現し経験ある選手達を次々と破っていった。結果至極当たり前に1979年度のジュニア世界選手権の代表に選出され、見事ロードで金メダル、そして他競技でも銀と銅をそれぞれを獲得して見せたのだ。そしてわずか若干18歳でアメリカ自転車競技界史上最年少でオリンピック代表に選出された。残念ながらモスクワオリンピックはアメリカがボイコットしたため、実際にオリンピックでその姿を見ることは叶わなかった。

レモンは20歳にして、まだ数人のアメリカ人しか到達していなかったヨーロッパでのプロデビューを狡猾なシリル・グイマードのもとルノー・エルフ・ジタンで果たす。1982年の世界選手権ではロードで2位に、そして翌年には見事に世界選手権ロードをわずか23歳にして制したのだ。当時彼ほどタフで利口な若手選手は他に見当たらなかった。まだまだプロの世界では評価の低い若手が有名な大御所選手達をすべて倒し、世界をあっと言わせたのである。しかもこともあろうに彼はアメリカ人だったのだ。

しかしそれでもまだまだ彼の評価は不当に低く、一部英語圏での評価されるに過ぎなかった。ヨーロッパ圏外の選手の実力を世界に轟かすは世界最大の自転車レースを制する必要があったのだ。
「穴熊」と呼ばれた英雄 ベルナール・イノー

1985年レモンは、ベルナール・イノーを擁するラ・ビ・クレールに移籍をする。フランスの英雄イノーは5度目のツール制覇を狙っており、24歳のレモンは「穴熊」と呼ばれたイノーの影武者的役割としてチームに招かれたのだった。

しかし皮肉なことに、レモンのほうがイノーよりも優れた選手であることはすぐに明らかになり、チームオーダーにより重要なステージでのイノーの山岳アシストを義務付けられたのである。結果イノーは5度目のツール制覇を達成し、レモンは1分42秒遅れの2位に甘んじることとなった。レモンなくしてイノーの勝利がありえなかったのは誰の目にも明らかで、イノーは翌年の勝利をレモンに譲ることを約束した。

1986年のツール第12ステージ、前年度約束を無視し、イノーは不調のレモンを置き去りにして逃げを決め、5分のアドバンテージをレモンに対し築いた。翌日もイノーは逃げを決めるが、約束を反故にされたことを激怒したレモンがじわじわと盛り返し4分半を取り戻した。

パフォーマンスとしてラルプ・デュエズでの頂上ゴールで2人は手を取り合ってゴールして見せたが、イノーは執拗にアタックを続けた。レモンは見事にこの年のツールを制したが、ストレスの溜まるレースとなる。露骨なまでのチーム内での裏切り自体珍しいことだが、それがイノーのようなスター選手が行ったことは衝撃であった。

「彼はイオタでまったく僕をアシストしてくれなかった。彼にはもう尊敬の念の欠片すらないよ。それどことろかこのレース後は彼とはもう友達でも無い。こんな裏切りはありえないよ。」そうレース後にレモンは語っている。

レモンは自身で自らが世代最高の選手であることを証明して見せた。そして誰もが彼のこれからの活躍を疑うことは無かった。5度のツール制覇も夢ではないと思われていた矢先の1987年4月、義理の兄とのハンティング中に誤射により胸に散弾銃を浴びてしまった。幸いにも一命は取り留めたが、胸部には取り除くことができなかった銃弾が今でも残っている。事件から2年間彼はツールを走ることができなかった。

1989年のカムバックは素晴らしかった。レモンは最終日のパリでのTTで、ローラン・フィニョンを僅か8秒大逆転しマイヨ・ジョーヌを獲得したのだ。続く1990年のツールも制して見事連覇を達成したのだ。

「テストはいくらやってもやり足りない。」〜グレッグ・レモン

グレッグ・レモンは1994年に引退したが、それが彼の伝説の終わりではない。そこから彼はオープンな場でのスポーツ界の問題、ドーピングに関する議論などを深めていった。しかしそれはスポーツ界の重鎮達、そしてランス・アームストロングの怒りを買う結果となる。このことに関する詳細は長くなるので、興味のある方は自分でウェブ上で調べれば多くの情報が得られるだろう。そしてどちらの言い分が正しいのかを自分の目で判断していただきたい。

色々なことが彼には付きまとうが間違いないと言える事が一つある。それは彼が『先駆者』だと言うことだ。初のヨーロッパ圏外選手としてのツール制覇、そしてアメリカ、イギリス、ニュージーランド、オーストラリアの英語圏の選手達に努力をすれば認められることを証明し、選手達がヨーロッパで活躍できる為の門戸を大きく開いた。

グレッグ・レモン、彼こそ真の伝説のサイクリストだ。
SRM